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高島おばけのおもしろさ、楽しさとは何なの?

高島おばけに近い像を見せるオブジェ
湾曲した鏡(オブジェ)

私は、その形の変化がおもしろいと思います。子供の頃、湾曲した鏡の前で自分の顔や体が縮んだり伸上がったりしておもしろがったことはありませんか。小樽駅前第一ビルのトイレそばにそのような鏡、オブジェ?があります。(左画像参照)

 

これです。これと近い感覚が、自分が今、見ている対象物で起こります。だから大人でもおもしろいと思うのかもしれません。これが高島おばけの楽しさです。

 

偶然でも、一度それを見たら強い印象を持つ人も多く、また、マイブームになるかもしれません。たとえていえば、人生観が変わるような広大な砂漠やオーロラを見た感動に近いかもしれません。その他に以下のような楽しみ方があるでしょう。

  • 人があまり見たことがない現象を見たという優越感に浸る
  • 話題の一つとして使える
  • 絵画や絵手紙の題材に使える
  • 実感して言葉を正しく理解し、俳句の季語(春)、文章などに使える
  • 土産品や商品名などに使う
  • 犬の散歩や釣りの『ついで』に見ることもできる
  • 赤岩のロッククライミングの休憩時に見ることができる
  • (ウィンド)サーフィンやセーリングなどの休憩時に見ることができる
  • (退職後の)暇な時間をつぶせる
  • 見るだけならお金がかからない
  • 人間としての幅が広がる (→そんなわけない!) 

などです。ぜひ、ご自分の楽しみ方を見つけてください。

 

上位蜃気楼(=高島おばけ)を見るときに困ることは何なの?

いろいろな意味に解釈できますが、急に用を足したくなる場合でしょう。

車やバイク等で簡単に移動できる人はともかく、1時間以上観察する予定で、徒歩で行動する人なら、トイレの場所を知っておきましょう。

 

 

高島おばけとなる対象が見える場所で、かつ、近くにトイレのある場所は、

  1. ウィングベイ小樽(車椅子利用者も可)やその近郊の施設
  2. 色内埠頭公園
  3. 観光船乗り場(公共船舶待合所)
  4. 高島漁港
  5. 朝里駅[無人駅]
  6. 銭函駅と海岸沿いの飲食店
  7. おたる水族館、祝津(しゅくつ)海岸

あたりがお勧めです。

 

やや、標高が高くてもいいなら、

  • 手宮緑化植物園
  • 小樽(花園)公園

あたりを加えてもいいでしょう。

 

また、基本的に晴れている時が、高島おばけを見るタイミングですので、人によっては日焼けすることが問題となります。その対策として、UVケアをしっかりして出かけましょう。帽子サングラスを身につけ、UV対応ローションクリームをぬりましょう。高島おばけが出やすいこの時期は、特に紫外線も多いので気をつけよう。

 

高島おばけを探す時、対象までの間に深い海がある方がいいの?

観察地点からその対象物までの間に、必ず深い海がなければいけないというものではありません。特に気にする必要はありません。条件が整えば、海がなくても上位蜃気楼は発生します。

石狩湾沿岸の水深
石狩湾沿岸の水深

当サイトでご紹介している多くの高島おばけは、一番深いところでも、水深が20~30m前後のところを経由している程度です。(対象までの距離は、約8~40Km程度)

左図参照

 

ただ、上位蜃気楼がよく目撃される富山県魚津琵琶湖周辺では、海・湖の水深が、石狩湾の水深よりも深く、その距離が短くても蜃気楼が発生している傾向が見受けられます。

 

なお、海がない場合に発生した事例として、数年前に冬の札幌手稲山山頂から日高山脈の上位蜃気楼放射冷却型)が確認され、北海道新聞の一面に掲載されましたことがあります。(2001年1月11日朝刊)

 

これは、上位蜃気楼の主要な発生要因である『上暖下冷』という2つの空気層が生まれ、下の空気層が放射冷却でかなり冷やされ、その上の空気層が普段と同じ程度の温度でも、相対的に気温差が発生し、上位蜃気楼が生まれることになったようです。

 

昔、『高島おばけ』が出た時に、漁師さんはどんな行動をとったの?

現在は、『高島おばけ』について、 光の屈折現象と証明・理解されていますので、普段と変わらない行動をとっています。しかし、昔はどのくらいの期間信じられていたのか不明ですが、『高島おばけ』が表れると、漁を途中でやめて家に帰り、しばらく出漁しなかったことがあったようです。

 

さらに、その当時、高島おばけ』が表れた直後に、行方不明になった漁師がいたことがあり、海底にでも引きずり込まれたのではと考え、より恐ろしさを倍加させていたためかもしれません。これも迷信の一つだったのでしょう。

高島漁港と弁天島
最近の高島漁港と弁天島

この辺りの話は、もし可能なら高島塩谷、桃内、忍路(オショロ)あたりの年配の漁師さんに尋ねてみるとよいでしょう。 『高島おばけ』に関する先祖からの言い伝えなど貴重な話が聞ける可能性があります。もし何かわかったら、こちらにもご一報を!

【参考】

少なくとも、明治35年発行された『北海誌料 全』(林顕三編)には、『高島おばけ』は、海市(かいし)だから、 妖怪の仕業ではなく、地文学上、どの海上にても見られるべき現象で、怪しむものではないと記載されている。


この内容が、この当時、高島近辺の漁師まで伝わっていたかどうかは定かではないが、少なくともその前後には 気象現象の一つとして理解され始めただろうと思われます。


ただし、 蜃気楼という名は、明治時代の初頃からより一般にも知られるようになったと想像されます。たとえば、書籍を調べてみると、明治6年の『天変奇談(東江楼主人著)』、明治9年の『物理階梯 続編(片山淳吉編 天梁館)』にその言葉が掲載されています。


また 、明治30年の『新撰国文中学読本(物集高見編 金港堂)』、明治末頃の複数の(農業)気象学・自然現象の本に蜃気楼という言葉や内容も多く記載されているのです。そして 、明治から大正期には、富山湾伊勢湾、中国の山東省、朝鮮の城津沖などが発生場所として記載されています。

『高島おばけ』を調べている際に『えっ』と思ったことはないの?

あります。『えっ』と思ったことがいくつもあります。その中の1つが、目撃情報と記録の少なさです。

 

それは、最初に『高島おばけ』を目撃し、記録に残したのが、江戸末期で松浦武四郎の1846年の航海の時 [記録としては1850年] だったとしても、 その後、約150年間、1998年まで本当に記録として残っていないのかという疑問です。

 

逆にいうと、毎年、頻繁に蜃気楼が発生していても誰も気づかない、あるいは、当然と思い記録していなかったのかもしれません。 

髙橋和夫氏の画像
高橋和夫氏

ところで、昭和10年代、『高島おばけ』を目撃したという話が広く伝わったことがあったようです。その資料の一つが、『(旧)高島町史』(高島尋常高等小学校 1941)でしょう。

 

元高島小教論、高橋和夫氏が、昭和10年(1935)頃の冬に赤岩山(371m)の絶壁から高島海上に蜃気楼を目撃との記載があります。しかし、正確な日時やスケッチなどが残っていません。

 

そのため、残念ながらこれは記録とはいえないかもしれません。また、この蜃気楼が上位蜃気楼だったかどうかも、今となってはわかりません。(左画像: 高島町会の副会長、小樽職人の会和凧匠である大黒 昭氏の自費製作出版書籍内の画像より)

 

高橋氏についてより詳しく調べたところ、北海道教育関係職員録などにより、昭和7~14年まで高島小、昭和14年春から18年秋頃までは手宮小、その後、朝里小、銭函小に在籍し、昭和22年春に、旭川方面の学校(落合国民学校)に移り、そこで教師を終えられたらしい。

 

さらに、調べたところ、『(旧)高島町史』(昭和16年8月発行)の編纂を依頼された樋口忠次郎氏は、昭和15~16年頃に手宮小に転勤後の高橋先生から蜃気楼の情報を入手したらしい。


ただし、樋口氏と高橋氏がかかわったであろう昭和16年3月発行の『小樽市郷土地理教授資料』(手宮国民学校)には、松浦武四郎が塩谷沖において蜃気楼を見るとの記述はあるが、高橋氏の目撃の記述はないようです。


また、残念ながら、この樋口氏も故人となり、その情報元がどんな内容だったのか、文字だけだったのか、図やイラスト付のものだったのか、発生年や日が特定できるものが本当になかったのかなど不明です。


そして、高橋先生が、万が一、高島小から転勤して、手宮小に蜃気楼に関する資料を残していても、その学校自体が、昭和38年9月27日に全焼したため、資料が残っている可能性はさらに低いものになります。ひょっとして、その後に転勤した朝里小や銭函小、あるいは南富良野の落合小、あるいはご自宅に記録が残っていればいいのですが…。

もう一つ、『えっ』と思ったことあります。それは、上記で紹介した『(旧)高島町史』という本の印刷所が、時代を反映して札幌刑務所になっていたこと。

 

いろいろな文献を調べると、 『高島おばけ』の挿絵が、絵師によりかなり違うという点に驚かされたこと。そして、実際の(上位)蜃気楼とも明らかに違うことなど、『高島おばけ』というキーワードでいろいろ調べてゆくだけで、『えっ』と思わせるものがたくさん出てきます。

 

皆さんも、ぜひ『高島おばけ』に興味を持っていただき、自分なりの『えっ』を見つけてください。きっと楽しくなります。

 

外国の人々は『高島おばけ』(=上位蜃気楼)を見ていないの?

ん~、わかりません。江戸時代に外国の人々が日本を占領しようと、あるいは交易を結ぼうと近海に来ていたときに見ていたかもしれません。その時の『高島おばけ』に関する資料が存在するのかどうかわからない状況です。

 

また、明治時代には、北海道で最初の鉄道、幌内鉄道(小樽-幌内)の資材購入で、米国帆船ジラルド・シ・ドベイ号が、特別許可により1880年(明治13年)秋に外国船として初めて小樽港へ入港しています。これ以降、外国船入港も増えてきているでしょうから、シーズンさえ合えば、『高島おばけ』を見た外国船員もいるかもしれません。

 

基本的に船乗りは、航海日誌というログを残すのが通例です。何らかの形で書き残されていてもおかしくないでしょう。米国あたりの図書館にそういうものがあればおもしろいでしょうねぇ。

 

さて、最近ではどうでしょうか。 諸外国の人々が、観光や留学などで小樽(近郊)に来ていますので、その時期とタイミングさえ合えば、『高島おばけ』を見ることは可能です。

観光ガイドや留学生受け入れ先などの方たちも、 観光客留学生と共に見られれば、よりいっそういい思い出が残ることでしょう。 最近では、冬にニセコにスキーに来るオーストラリア人や東南アジア人が多く、小樽でもちょくちょく見かけますので、彼らが 最初に『高島おばけ』を見る外国人になるかもしれません。

 

ちなみに、『高島おばけ』を英語では、"Takashima Phantom"というそうです。これは、2001年6月の 北海道Webzineという英文サイトのニュース&トピックスからわかったものです。

さて、ここでおもしろいことに気づきました。『高島おばけ』の『おばけ』の部分を英語で"phantom"(ファントム)といい、 一般的総称の蜃気楼は、"mirage"(ミラージュ)といいます。偶然なのか、この二つは両方とも『戦闘機』の名前と一致しています。

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