歴史上の人物

松浦武四郎

戸末期の蝦夷地探検家、北方探検家といわれる『松浦武四郎』は高島おばけを語るうえでも欠かすことができない人物です。『北海道』や『後志(しりべし)』という名の名付け親としても知られています。

彼が残した日誌類に、高島おばけ
とおぼしき情報が多く残っています。昔の人がどう捕らえ、どういう状況で、どんな印象をもったかなど垣間見ることができます。

その日誌とは、『三航蝦夷日誌』 (初航、再航、三航のうち再航蝦夷日誌;1850年)と 『西蝦夷日誌』(1863年頃)のことで、 写しや訳文に多少語句に違いがあるようですが、まとめてみると、
以下のようです。

 

松浦武四郎が高島おばけを見た地点

■発生時期は、1846年5月初旬頃(新暦5月末頃~6月初

■他地域で約40Km程離れた所から確認された上位蜃気楼が、塩谷沖合いでは約8Km未満で見られた(左図参照)
■発生直前に『もや』がたなびき、赤紫色に変わるとすぐ高島岬近くの小島が天を刺すように奇妙な形に変わった。 まるで中国の武夷山の九曲(=現在、世界遺産)のようだ。また、地形や樹木、船なども形を変え、カラフルに豪華に変化すると指摘している。

すぐに形を変え、書き留めるのが難しく、風が吹くとすぐに消滅

 

これらを現在に当てはめて検証すると、そのほとんどが合致している。たとえば、時期。5月末~6月初は一番発生しやすいシーズンです距離は、小樽では、今まで12Km以上離れた位置で「高島おばけ」を確認することが多かったが、ここにきて5~6Km、あるいはそれより短い距離でも目撃されている。そして、変化した形の様子は、今ではビデオ撮影で「高島おばけ」の姿を捉えているのでこの表現も妥当なものといえます。

 

ただし、「カラフルに豪華に」という表現の「高島おばけ」を私は見たことがないので、いつか見たいと思っています。

ところで、松浦武四郎が、当時、塩谷より高島にいたる途中、沖で蜃気楼が表れるのを見て作った句があったので紹介します。 『朝あらし 龍の宮居(古)と 見るまでに 吹まくあとに たてる白波』 というもので、 『高島雑記』(河合吉兵衛 1937)、『(旧)高島町史』(高島尋常高等小学校 1941)や『蝦夷日誌(下)』 (時事新書 1962:吉田常吉編)の中などに記載されています。

 

【注】 「三航蝦夷日誌」は、記録(≒ノンフィクション)で、「西蝦夷日誌」は、読み物(≒フィクション)だそうです。

 

田崎早雲

田崎早雲が描いた高島おばけ図

南画家の田崎早雲だ描いたという「高島おばけ」の挿絵だ。間違いなく本物を見ていないことがわかる。想像上で描いたものでしょう。

 

挿絵自体は非常に上手ですばらしいものです。でも、『高島おばけ』という現象を考えると、『もや』の存在があやふや、波が荒く風が強い。進行方向左舷に高島岬を見ていることなど矛盾点が多すぎます。

 

これは、読み物である『西蝦夷日誌』 (下 吉田常吉編;時事通信社)や『蝦夷日誌(下)』(時事新書 1962:吉田常吉編)の挿絵として依頼されて、やむなく描いたものと推測します。

 

【参考】 昭和6年2月5日の小樽新聞に掲載された『高島おばけ』もこの挿絵を参考にしていると思われます。

 

忠実に描いたと思われる高島おばけ図

その一方、記録といわれる『三航蝦夷日誌』 (吉田武三 校註:吉川弘文館 1971年発行)に描かれている挿絵は、非常に忠実に『高島おばけ』 について表現しているように感じます。これは、絵がうまいといわれる松浦武四郎本人が描いたものかもしれません。

榎本武揚

高島おばけとなった球形タンク群
石狩湾新港の球形タンク群(2004.5.14)

明治時代に小樽中心街の基礎をつくった人物榎本武揚が小樽港沖で海から噴きあがるような竜の光を見たそうです。

その正確な日時や真偽のほどはわかりませんが、これは反転像を伴う『高島おばけ』(=上位蜃気楼)に現れる『のろし』のような像とその上部に形づくられる点像(左画像参照)を表現していたのかもしれません。

また、それと関係するかどうか不明ですが、榎本武揚は、小樽駅そばの海が見えるところに龍の宮として、龍宮神社を建立した人物でもあります。

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